コロコロ VS 抜け毛

「人生とは自分自身との終わりなき闘いだ」なんて思っちゃいるけど性根がヘラヘラしている小市民の雑記ブログです。

【ホラー小説】袋小路(1)

拙くて恥ずかしい限りですが、むかし初めて書いたホラー小説を公開致します 


 【ホラー小説】袋小路(1)

 

 「すみません、これはどちらへ運びましょうか」
 大きい家具や家電品の搬入を一通り終えてダンボール類に差し掛かってきたところで、置場のおおよその見当すらつかなくなってきたらしい。
 堤祐介は引っ越し作業員の問にうまく答えられず頬をかいた。
 埒が明きそうにないと作業員が困った表情を浮かべると、二階の右側の部屋にお願いします、と一人娘の陽菜がすれ違いざまに指示を出した。続けざま、お父さん区別つかないの、と浴びせかける。
 足早に階段を駆け上がっていく娘を見送っていると、今度はリーダー格の年配の作業員がやってきた。えーとこれはどちらへ? 堤がまたしても無言で首を傾げていると、それキッチンにお願いしますね、と妻の洋子が遠巻きから声をあげた。
 作業員は妻子の指示に従い、てきぱきと仕事をこなしていく。聞けば今日は午前中に一軒の引越しを済ませており、今の堤家の引越しは二軒目の作業にあたるらしい。さらにこの後、夜にもう一軒対応する予定ということだった。いくら仕事とはいえ、若い作業員はともかく年配の作業員の底知れぬ体力には頭が下がる。堤はあまり役に立っているとはいえない働きにもかかわらず、旧居から出てくるだけで既に疲れ切ってしまっている自分が情けなくなった。
 ダイニングで作業している妻の姿を何となく目で追っていたら、いつの間にか三人目が隣に立っていた。抱えたダンボールに目を落として眉間に皺を寄せ、何やら考え込んでいる。
 二階から大きな声。
「ねえお父さーん。青いマジックで書いてるダンボールは全部あたしの部屋のだから、二階に持ってきてくんなーい」
 思わず二人でダンボールに目を落とすと、「衣類」と書かれたマジックの色は、黒色だった。
「青じゃ、ないですね」
 作業員が苦笑いを浮かべる。
「えっとあの、あっちに、聞いてみてください」
 堤は責任逃れすると、娘の声は聞こえなかったふりをして、ビニールロープで括られた傘の束を小脇に抱えて玄関を出た。
 3トントラックのハッチと家とを、白と紺の縦じまを着た作業員がせっせと行き交う。
 堤は念願のマイホームを改めて眺めた。川崎市の公団賃貸マンションから、都内へ移動。これから大田区での一軒家暮らしが始まる。
 国道から一本裏に入った住宅街。一方通行だが車二台分なら難なく行き交いできるであろう通りには、個人経営の学習塾、調剤薬局、駐車場付きの大きな銭湯に、和菓子製造卸の老舗、小さなクリーニング店などが点在している。堤家は、通りに面してコの字を形成している区画にある。
 コの字の区画は左手から、整体院が通りに面した一番手前にあり、続いて戸建てが三軒奥へと並ぶ。右手の側は、昔ながらの──ドアを開けるとカランコロンと鐘が鳴りそうな──喫茶店が通りに面していて、同様に戸建てが三軒奥へと続く。この右手の三軒の真ん中が売りに出されていたところを、堤がネット情報を漁って見つけ出したのだった。
 家探しをするにあたり、引越しのタイミングについては夫婦でたくさん話し合った。陽菜がこの春中学三年に進級するため、この時期での転校は受験勉強の負担になるだろうし、何よりかわいそうではないかとも思われたが、住宅ローンの返済期間を踏まえて長い目で見ると、ここでこんな良い物件に出会えたのはまたとない機会だと堤は意見した。勢い任せで行き当たりばったりだった人生。遠回りもしたし、準備不足を痛感することもあった。それを軌道修正するとなると、何かしらの代償や犠牲を払うことになるのは仕方がない。折れた骨を戻す時、痛みは生じるものなのだ。
 ──でもその痛みを伴うのが陽菜だってのがね。あの子はそもそも関係ないのに。
 洋子のお決まりのセリフで気が落ち込み、話し合いが振り出しに戻ることもしばしばだったが、肝心の陽菜自身に率直な意見を聞いてみたところ、そんなに遠くに離れるわけではないから友達とはいつでも会えるし、むしろ転校することでもっと友達が増えるかもしれないと、マイホーム購入に伴う転校という事態に前向きな姿勢を示してくれた。ちょうど思春期の年ごろだ。襖一枚を隔ててリビングと隣り合った部屋ではなく、独立した自分の部屋が持てるようになるだろうという希望的観測もあったのかもしれない。
 よし買おう。いったん話がまとまってしまえば、あとはとんとん拍子に事が進んだ。
 初めて下見に来て以来、何度かここを訪れたが、こうして引越し業者の作業員の手によって荷物が運び込まれていく様を見ていると、空っぽだった身体にどんどん栄養が送り込まれていくようで、この建物が我が城なのだという実感がようやく湧いてきた。
「がんばんなきゃな」
 少し浮かれた気分になり、束になった傘をクラブに見立て、やりもしないゴルフの素振りをまねてみたところ、フルスイングした視線の先に一人の女性の姿があった。
 隣家の人だろうか? 挨拶をしようとした時、陽菜の声が耳を刺した。
「ちょっとお父さん、さっきから呼んでるんだけど。なにサボってんの」
 自分の部屋にするつもりらしい二階の洋室の窓から身を乗り出し、まだあどけなさの残る顔に鬼の形相を浮かべている。
「いや、別にサボってるわけじゃないよ、ほら、作業のさ……最終的なチェックをしてたんだ」
「何よ最終的って。まだ何も終わってないし。もっとちゃんとしてよね」
 大声で責められて恥ずかしくなってきたところで隣家へ目をやると、女性はちょうど宅内へ引き返すところだった。二人の掛け合いが聞こえていたのだろう、女性は微笑みながら軽く会釈をした。堤も慌てて会釈を返した。
──業者さんにまかせっきりじゃなくて、男なんだからもう少し役に立ってよね」
 愛娘の説教は終わっていない。
「わかった、わかったよ。今戻る」
 これ以上小言を言われてはかなわない。堤は雨宿りするように丸まって家へ駆け込んだが、玄関で靴を脱いだところで階上からとどめの一言が落ちた。
「わかればいいのよ、わかれば!」
 右手のダイニングと左手のリビングから複数の笑い声が漏れた。

 

「ありがとうございました! また何か機会がございましたらお願いします!」
 作業が一段落して引越し業者が帰ったころには、すっかり陽が落ちていた。今日は近所への挨拶回りまで済ませる予定だ。
「ねえ祐介、どうしようか。このあと」と洋子。
「もう暗いから失礼にあたるかもしれないな。でも晩飯時だから、日中より留守の可能性が低いっていうメリットもあるんだよなあ」
「そうね。暗いといってもそんなに遅い時間でもないし、行こっか。陽菜はどうする?」
 陽菜は冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを取り出し、首を振った。
「あたし行かない。疲れちゃった。ねえおなか減ったから早く帰ってきてね」
 ラッパ飲みするつもりなのだろう、陽菜はグラスを持たずに二階へと上がっていった。
「しょうがないな、じゃあ二人で行くか。あの喫茶店から反時計回りで行こう」
 このために用意していた日持ちする菓子折りを七個、堤は洋子と二人で手さげを分け合った。
 二人はコの字の右手、<喫茶エコー>から訪ねることにした。喫茶エコーは古めかしい外観のイメージどおり、ドアを開けるとカランコロンと鐘の音を響かせた。
 店は六十代の夫婦で営んでおり、名前は江藤といった。店名は江藤をカタカナにしてエトーにしようと当初考えてたらしいが、つまらないので一文字ひねってエコーにしたのだという。
「お店の評判が響いてこだますれば良いんですけどね。実際のとこ、閑古鳥が鳴いてますわ」
 後付けだという店名の意味には、やはりと言うべきか、さほど強い思いは込められていないようで、なかなか芳しくなさそうな経営状態にもかかわらず主人は笑っていた。国道沿いに大手のカフェチェーンがあることもあり、近隣に住む常連客くらいしかこの店でコーヒーを飲む理由はなさそうに思われた。
 お近づきのしるしにとコーヒーを一杯誘われたが、二人はまだ挨拶回りがあるので、と丁重に断り、楽しみにとっておきますね言い残し店を出た。
 次の二軒目は、堤家から見て左の隣家にあたる<伊藤>家だ。出てきたのは中年女性でとても痩せていたが、見た目の印象とは裏腹に大きな声でハキハキとものを言う元気な人物だった。主人を亡くし一人暮らしなのだという。寂しいですねと取り繕うと、伊藤は、全然寂しくなんかないと屈託なく笑った。
「伊藤さん、気さくな人だったね」
 洋子の様子を見て、堤は少し安心した。自分は外へ働きに出る身だが、洋子は──パートをする予定ではあるが──主婦として家庭を守る身だ。だから洋子がここなら問題なく近所付き合いをやっていけそうだと思えるかどうかが肝心だった。左の隣家が面白そうな人だったので、まずは第一関門クリアといったところだ。
 二人は次に、我が家を通り越して右の隣家に向かった。
 石造りの表札には<木村>と彫られてあった。インターホンを鳴らすと、ほどなくして先ほどのゴルフスイングの先の女性が顔を出した。近くで改めて見ると、三十台半ばくらいだろうか、堤には自分たちとさほど変わらない年ごろのように見える。
「あの、隣に越してきました、堤と申します。先ほどはきちんとご挨拶できずにすみませんでした」
 何の話? と洋子が訝しげな顔を向ける。
「いえ、私の方こそ。ちょっと夕刊を取りに出ただけだったので、すぐに引っ込んでしまってすみませんでした」
 木村は目に表情のある女性だった。微笑を崩さないまま、その目には申し訳ないという気持ちをきちんと湛えている。
「娘さん、とても元気ですね」
 やはり一部始終聞こえていたのだ。堤は照れくさそうに、ええまあ、と返すしかなかった。
「申し遅れました、木村と申します。今後ともよろしくお願い致します。あの、主人がまだ帰宅していないもので、また次の機会でよろしいでしょうか」
 木村のその透明感に魅入られてしまったように、返事を忘れてぽかんとしている夫に代わり、洋子が返答した。
「全然かまいません。こちらこそよろしくお願い致します」
 洋子はそう言うと、自分の持ち分だった最後の菓子折りを手渡した。木村に向かって微笑を浮かべている妻を見て、こちらもなかなか目に表情がある女だなと堤は思う。
 木村は夕食の支度中であることを匂わせ、話をここで括って戻っていった。
「よし、じゃあ次行こうか」
 右列は終わり。次は左奥からだ。
 順調に折り返し地点を回ることができて意気揚々としている夫に、洋子は白い目を向けた。
「木村さん、綺麗な人で良かったね」
 こういうときは変に言いつくろったりしない方が良い。堤は聞こえなかったふりをして、反時計回りを進めた。
 次の<阿部>家には老夫婦が住んでいた。歳のせいか話がいろいろと噛み合わなかったが、引越しの挨拶に来たという肝心な用件は何とか伝えることができた。
 世間話で意思疎通を図るのは中々骨が折れそうだったが、老夫婦は喫茶エコーによく行くということだったので、堤は一度ゆっくりと行ってみる必要があるなと思った。うまくいけば、一気に二組のご近所さんと仲良くなれるかもしれないわけだ。
 菓子折りを差し出し、中身がクッキーであることを伝えると、老人は歯が悪いので食べられそうにないと残念そうに言った。もったいないからエコーさんにあげて茶菓子にでもしてもらいますねと老婦人が続ける。
 差出人を目の前にして、もらいものをよそ様へあげると言えるその神経について思うところがあったが、相手は老人だ。
「あれ、悪気はないんだろうね」 洋子が振り返りながら言う。
「つーか、何も考えてないんだろ」


 

 

 二人は順番どおり、次は左手の奥から二軒目、堤家の向かい側にあたる家を訪ねることにした。
 木彫りの表札には<牧野>とあった。洋子が呼び鈴を鳴らすと、ドタドタした足音とともにハイハイハイという中年女性の声が聞こえてきた。勢いよく玄関の戸が開く。
「ハイどちらさん」
「遅い時間にすみません。引越しの挨拶に参りました」堤は本日五度目となる文句を放った。
「あらあ大変ねえ」
 中年女性は目を輝かせた。新しい話題や出来事は何だって面白いのだろう、間違いなくワイドショーが大好物といったタイプだ。
「堤と申します。今日こちらへ引っ越してきました。あの、日中ずっと引越しのトラックが表に出てたと思うんですけど、ご挨拶が遅れてすみませんでした」
 洋子が丁重に詫びた。
「いいのよう、気にしないで。うちはね、五人家族なの。私と主人と娘夫婦と、二歳になる子供──私の孫ね。大変なのよこれがまた。男の子でね。元気な割には身体は弱いし。良かれと思ってやってあげたことが娘の気に食わなかったりするし」
 典型的なおしゃべり好きだ。終わりのない話が始まる予感がして、堤と洋子は目を合わた。こちらから訪問しているのだし、今日は初対面だ。我慢するしかない。二人は前を向いて覚悟を決めた。堤は、今この場に対して。洋子は、今後何十年と続くであろう、近所付き合いに対して。
 すっかり暗くなってしまったが、牧野のおしゃべりは止まらない。開け放たれた玄関からの灯りで、二人の位置からは牧野の顔があまりよく見えなくなっていた。もはや二人は途中から、神々しい輝きに縁取られた中肉中背のシルエットに対して、ただただ適当な相槌を打ち続けるだけになっていた。
 突然、後ろから陽菜の声がした。「お母さーん、おなか減ったー」
「あ、はあい」
 洋子の声に久々に精気が宿った。
「あら、夕ごはんまだだったの。娘さん食べ盛りなんだから、ちゃんと作ってあげなきゃ」
 あんたに捕まっているせいで食事の支度ができないんだよと堤は思ったが、もちろん口にはしなかった。洋子がここぞとばかりに切り上げようとする。
「ではすみませんが、そろそろ。祐介、あたし戻らなきゃ」
「そうね、うちもそろそろ」
 同意した牧野のセリフを最後のものと受け取り、洋子は会釈して先に立ち去った。堤も慌ててこの機会に続くことにした。
「それでは今日はこの辺で。今後ともよろしくお願い致します」
 改めて挨拶を済ませ、次の家の訪問はどうするのだと洋子を呼び止めようとしたところで、逆に牧野から呼び止められた。
「あ、ねえ、ちょっと」
 何だ、まだ話し足りないのか。堤が振り返ると、牧野はじっとこちらを見ていた。今しがたまでいた軒先と違い、玄関口まで戻っているため、先ほどに比べると幾分表情が見て取れる。牧野の顔は神妙だった。
「お隣、行った?」牧野は小声で訊ねた。「うちの隣ね。こっち側の」
 牧野が顎をしゃくった先は、この次に挨拶に回る予定のところだ。
「いえ、まだこれからです。あの喫茶店からこうグルっと回ってきたので」
 堤が指差してジェスチャーすると、牧野はうんうんと頷いた。
「これから。そう、まだなのね」
「何か」
「あのね、こんなこと言うのなんなんだけど。お隣、大江さんっていうんだけど、気をつけなさい。その、変わり者だから」
「変わり者?」
 堤の声が大きいと判断したのか、牧野は再び軒先まで出てきた。
「五十前後くらいの息子と、そのお母さんと二人暮らしなのよ。お母さんはもう八十前後とかでしょうね。でね、どっちも変といえば変なんだけど、とくに息子の方、すごい癇癪持ちなのよ」
「癇癪持ち?」
「急に怒鳴り声をあげるのよ。とにかくもう、わめき散らして」
「ああ、そういう」
 気をつけろというものだからどんなものかと思いきや、まあよくあるような話だ、と堤は思った。しかしその思いは即座に打ち消された。
「大体のパターンはね、息子が突然騒ぎ出して、ある程度わめき散らしたところでお母さんが『うるさい』ってピシャリと叱りつけて終わるんだけど、ただね、ここ数ヶ月かな、息子の言葉がおかしくなってきてるのよ」
 おかしい? 眉間に皺を寄せ、堤は続きを促す。
 牧野はもう一段階、声をひそめた。
「前は何だか、ただ怒鳴ってるだけって感じだったんだけど、ここ最近はね、何かちゃんと聞き取れないんだけど、何か言葉を言うようになったのよ」
 まだ一度も会ったことのない癇癪持ちの、言葉の変化がどうのと言われても、堤には正直ピンとこない。
「……意味がよくわかりませんね。いつも同じ言葉なんですか?」
「そうなのよ。だから気持ち悪いんじゃない」牧野が手首を振る。
 堤の視線は、次の訪問先へ向いていた。灯りはついていない。
「それじゃあね。また今度でいいんじゃないの? まあ、お任せするけど」
 一方的に言い放つと、牧野はそそくさと戻っていった。
 堤はその場に立ち尽くした。つい今しがたまで浮かれ気分だったのに、興醒めしている自分に気づいていた。これからはじまる新生活に、期待に胸を膨らませていたのに。
 牧野の話に、不安や恐怖を抱いたわけではなかった。ただ楽しい気分に水を差された、そんな気持ちだった。水を差したのは牧野だが、牧野をどうこうと責める気にはならなかった。堤はむしろ、会ったこともないその癇癪持ちに対して、一種の嫌悪感を抱き始めていた。
 若者が一人暮らしのためアパートを借りるのとは訳が違う。妻子ある三十七歳の男が、やっとの思いでマイホームを手に入れたのだ。それなのに、何でよりによって、斜向かいにそんな変わり者が住んでいるんだ。下調べが足りなかったか。堤は一瞬、怒りの矛先を自分に仕向けようかと思ったが、やめた。馬鹿馬鹿しい。近隣の人となりを事前にリサーチするなんて、中々できることではない。
 灯りがついていないことから、今はいないのかもしれないという気持ちも手伝って、堤は大江家をやり過ごすことにした。洋子は家に戻ってしまっている。次は自分一人で行こう。
 忌まわしき大江家を睨みつけながら通り過ぎると、堤は最後の訪問先へと歩みを進めた。
 最後の訪問先は整体院だったため、一般客が利用する出入り口から声をかけた。 「ごめんください」
 誰も出てこないため堤がもう一度呼んでみると、その声にかぶさるように、はいと返事があった。間もなくして白衣に身を包んだ体格の良い男が現れた。背は高くないが体つきはがっしりとしていて、頭は見事に禿げあがっている。
 堤は菓子折りを差し出した。
「あの、この軒並みに引っ越してきましたので、ご挨拶に伺いました。堤と申します」
「ああそうですか、わざわざどうもどうも」
 男は顔をほころばせて受け取った。
 堤は院内を見渡した。「こちらは整体院なんですね?」
「ええ、まあ指圧マッサージがメインですが、お客さんの要望に応じてね、鍼灸からアロマテラピーから、身体に良いと思うことは何だって取り入れてやってますよ」
 男は腹に力の入った声で少し早口に言った。
「あ、だから(整体院)じゃなくて、(療術院)となさってるんですか」
 言っておきながら、意味はわかっていない。表にかかっていた看板の情報だ。
「そう、整体だけじゃないから。いろんなアプローチでね、悪いところバッチリ治しますから。草間療術院です。よろしく」
 男は自然と自己紹介した。草間というらしい。
 草間の体躯に見合った毅然とした態度に、堤は何か惹かれるものがあった。あまりサラリーマンの世界──少なくとも自分の会社──では、ここまで堂々と自信に満ち溢れた人間に出会うことは中々ない。この手の人間は、恥を恥とも思わず、時に失敗や過ちを犯しても、最終的には正しいゴールへと辿り着いてみせる馬力がある。
 理屈っぽく問題提起することはできるが、自身で解決へと導くことまではできない人間があふれかえっている世界に生きている堤にとって、草間のような人間は新鮮だった。背筋をしゃんと伸ばし、胸を張り、相手の目を見据えてハキハキと話す。些細なことだが、それだけで相手に与える安心感が違うというものだ。
「どうです、少し身体をほぐしていきませんか」
 思わぬ誘い。喫茶エコーでコーヒーを断った手前どうしたものかと一瞬戸惑ったが、ここが最後の訪問先なのだし、洋子が引き返してからまだ間もない。食事までの時間をさっと割り出すと、堤は快諾した。
「じゃあ折角なんで、お願いしようかな。えっと」堤は小さな受付カウンターのメニュー表を確認した。「──指圧マッサージでお願いします。二十分コースで」
「はい了解、ありがとうございまーす」
 草間は大きな声で応えた。
 準備するので待っててほしいということで、手渡されたスウェットに着替え、受付の裏側にあるベッドにしばらくうつ伏せになっていると、靴下が床に擦れるような足音が聞こえたので、首をのけ反らせて音のする方を見た。
 奥の住居部分との境界にあたる間口から、女性の足が見えた。カーテンがかかっているため顔が見えなかったが、堤がしばらく凝視していると、カーテンを割って老婆が顔を出した。老婆は、堤と確実に目が合っていることを自覚してから、ゆっくりと微笑んだ。
「どうも、いらっしゃいませ」
「あ、どうも」
 ベッドに突っ伏したままの体勢で堤は返事した。首がのけ反っているので変な枯れた声が出た。
 草間さんのお母さんかな──
 白いものが混じる、というよりも、ほぼ灰色に見えてしまう髪。やせ細った身体は乾燥のためか皺だらけで、皮膚病でも患っているのだろうか身体全体がどす黒くくすんでいる。
 あまり触れるべきではない。何となくそう感じた堤は、のけ反った首で器用に会釈し、ベッドに突っ伏した。コミュニケーションの終了を暗に示したつもりだ。
 意図を汲んだのかどうか、老婆は一言だけ声をかけてきた。
「うちの人、腕が良いんですよ」
 無視するのもなんだと首を上げると、もう老婆の姿はなかった。
 草間の指圧は恐ろしく的確だった。便宜上、指圧と表現しているが、状態に応じて肘を使ったりもするらしい。そこは違うといったハズレがなく、押される箇所すべてに心地よい痛みを感じた。
「表層のコリは比較的すぐほぐれるんですけどね、深層のコリはなかなかね、今日の二十分じゃとれないからね」
 草間はところどころに敬語を交えた話し方をする。あと二、三回も通えば間違いなく敬語は消えて無くなっているだろうと堤は予感したが、別に悪い気はしなかった。
「でもわざわざすみませんね、お菓子なんか戴いちゃって」
 草間は籠へ目をやりながら言った。客に荷物を置いてもらうために用意しているもので、今は堤の洋服が無造作に投げ入れられていて、その上には洋菓子店のロゴが書かれた手さげの紙袋が積まれている。
「この後、まだどこかへ回るの?」
 大江家へ渡しそびれた、最後の一袋のことを言っているのだろう。堤はそう解釈して、突っ伏したまま説明した。
「いえ、こちらが最後です。それは、大江さんでしたっけ、こちらのお隣さんへ渡すつもりの物だったんですけど、灯りがついていなかったもので」
 草間はへえ、とだけ答えた。
「……ところで大江さんって、どんな人なんですか?」
 堤は大江家の評価を確認することにした。おしゃべり好きの主婦の見解だけでは、まだ何とも言えないではないか。
「いや、よく知らないですね。うちに来てくれたこともないし」
 聞き方が悪かったとすぐに気がついた。堤は自分が新参者であるため、堤家以外の隣近所はある程度の付き合いがあるものと勝手に思い込んでいたが、その前提はそもそも誤りだった。このご時世、隣人との付き合いがないどころか、名前も顔も知らないなんてことだってありうる話だ。
 これといった収穫がなく残念な気持ちになるや否や、草間の太い指が頭頂部へと移った。
「ちょっと痛いけど我慢ね」
「え」
「いい子だ」
 堤はここ数年で一番の叫び声をあげた。

 

「はい、お疲れさまでした」
「いやあ、気持ちよかったです。頭はやばかったですけど」
 堤はスウェットを脱ぎながら感想を述べた。何だか腕を上げたときの肩まわりの動きがスムーズな気がした。
「堤さんはもう少し筋肉をつけた方が良いですね。痩せてるわけじゃないけど、筋肉量が足りない。きっと、ちょっと疲れたらすぐ姿勢が悪くなっちゃうでしょ。それがまた身体の歪みを生むんです。このままじゃどんどんガタガタになるよ」
 今日の引越しで痛感したばかりだ。
「草間さんはすごい身体してますもんね」
 堤が言うと、草間は袖をまくって力こぶをつくって見せた。
「テレビ見ながらダンベルしたりね。あとは歯磨きしながらスクワットしたりね。そんなやり方でも続けてればこれくらいになりますよ」
 筋肉うんぬんにあまり興味はなかったが、その実践内容と結果に思わず目を丸くした。
「そんなもんなんです。よくみなさん忙しいって言うけどあれは言い訳。働いててもね、自分を高めるためのこと、自分が楽しいと思うこと、時間を有効活用すれば何だってできるはずですよ。そしてそれを続けていれば、結果も付いてくる」
 ベッドの後片付けをこなしながら力説する草間は、まさに今、時間の有効活用とやらを実践してみせていた。
 この引越しを機に生活を少し改めてみようか。堤はベルトをぎゅっと締めた。
「セールストークのつもりはないけど、遠くないうちにまたいらして下さい。しばらく定期的に続けないと、良くなりませんから」
「はい、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします」
 本当なら初診料として二千円かかるところ、ご近所割引きですよと、草間は取ってつけた名前でサービスしてくれた。支払いは三千円だった。指圧に馴染みのない堤にはそれが高いのか安いのかわからなかったが、とりあえず身体はすっきりしたし、満足した。
 二十分コースといえど施術前後の着替えなどもあり、思いのほか時間を食った。もう七時を過ぎている。暖かい院内から出たためか、外の風が、訪れた時よりも冷たく感じられた。
 大江家は変わらず灯りがついていなかった。留守なのか、そういう家庭なのか。
 堤はしばらく大江家を睨み付けていたが、やがて鼻で笑った。実際に何かあったわけではないし、そもそも草間などは、大江のことなんてよく知らないと流してしまっていたではないか。牧野は気をつけた方がいいと言うが、所詮、癇癪持ちの親子などこの近隣ではその程度の存在なのだ。
 指圧マッサージを受けて心身ともにすっきりしたところで、すっかりどうでも良くなっていた。
 堤は妻子の待つ家へ向かった。大江家を通り過ぎたところで、後ろの方でシャッターを閉じる音が聞こえた。草間療術院、本日の営業は終了のようだ。
 今日は鍋の予定だ。洋子と陽菜の二人で始めてしまっているだろうが、別に構わなかった。堤家ではよくあることだし、途中参加でも鍋は美味い。
 冬の終わりは近かった。これからここでがんばっていこう。
 堤は夜空を仰いだ。

 

(つづく) 

 

 

<次回>

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  • 作者: 花城 冬
  • 発売日: 2018/07/31
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 <あらすじ>

 些細な問題から合コンの予定をパアにしてしまった飯野淳司は、仲間から罰ゲームをさせられることになる。

「いまから俺らの前を通る五人目を、ラブホテルに誘うこと」

 渋々応じる淳司の前に現れた五人目は、偶然にも以前電車で席をゆずったことのある不気味な女だった。酒に酔ってそれと気づかぬまま声をかける淳司。肯定する女。ふたりは、流れで関係をもってしまう。
 後日、淳司は自宅のベランダから思いもよらぬものを見た。アパートの表の電話ボックス。淳司の部屋をじっと見上げていたのは、例の女だった。
 女のストーカー化を懸念した淳司は、ふとした思いつきで難を逃れようと企てた。しかし後先を考えないその行為がさらなるトラブルを引き起こし、女を思いもよらぬ狂気へと駆り立てる。

 この女からは、逃れることはできない──絶対に。